<はじめに> by がらんどう 80年代、つまり、我ら中年モデラーがまだ20代の若造だった頃、小坂勝巳さんは、モデルアート誌にて数々の珠玉の作品を掲載されていました。その後、「レプリカ」誌でいくつかの作品を見せて下さった後、プラモデル雑誌からは姿を消してしまい、一種「伝説のモデラー」的に語られてきました。
今回、嬉しいことに、当事のモデルアート誌とその周辺の出来事に関し、小坂さんご本人が筆を取ってくださり、ここに所収できることになりました。では往年の名筆致を今またしばし味わって下さいませ。
少し前のネタにもなっていた「マニュアルと型」の件に絡んで、遅ればせながら僕の個人的な来歴とともに。
昔、60年代の末ごろ、とある地方都市に住む小学生〜中学生であった頃の僕は、目抜き通りの商店街の、小さなちいさな模型屋さん(初老の、元アメリカ在住商社マンの未亡人であった婦人が営んでいた舶来キット中心の店)、のショウウィンドウに居並ぶ見事な完成品群に魅せられて、この世界に足を踏み入れるようになりました。レベルやモノグラム、ホーク、リンドバーグなどといった、彼の国の香り漂うキットたちとの出逢いも、その頃が............. , 初体験です。ちょっと背伸びをしたい年頃の少年にとって、ここのお店は本当のワンダー・ランドだったのです。
実際、この店の常連グループには目を見張らされるような素晴らしい名人たちが多く居て、辣腕の改造マニアであった年配のHさん、複葉機を作らせたらまず右に出る者のない県職員のNさんなど、いまだにもって僕ごときの太刀打ちすらもかなわぬような凄腕の名人の方たちから、いつも小うるさいガキだと疎まれつつも、幸運にも直接にいろいろと啓発を受けながら育ちました。マニアライクな高校生グループのオニーサン達もよく集まっていて、基本工作やら改造工作、筆塗りと手描きのマーキングといったことの全ては、この時代に前出の方々から教わったものです。
当時のモケイ小僧必携の資料は「プラホビー新聞」とぺらぺらの「プロファイル」で、「エアカム」でも持っていようものなら、そりゃもう天下無敵でした。こうした資料を、主に「ライト航空(懐し!)」からの通販で入手していましたが、他の情報源としては、故・橋本喜久雄氏や大泉さん(もちろん、ホラ・ブロワーズの)らの執筆しておられた「航フ」、酣燈社の「プラモガイド」等を参考にしていました。「モデルアート」なんていう雑誌もぼちぼち創刊されていましたが、時折書店で見かけて思い出したように買ったりしたことはあったものの、当時生意気にも、小学生時分からの「CG」(あ、当然今で言うところのCGではありませんヨ)や「航フ」の読者であった身には、どこか食い足らず、むしろその頃から動きモノが好きでもあったので、どちらかと言うと「模型とラジオ」の方をよく購読していました。
この当時はまだおおらかな時代で・・・・と続けたい所ですが、実はそんなことは決してなく、知識の程度こそ筆者、読者、メーカーを含めて、今とは雲泥の差があるとは言うものの、誌面でのキット評などは歯に衣を着せぬ、それは手厳しいものでした。また実際、読み手の側でもそうした辛口の記事をこそ求めておりました。考えようによっては、そうであったればこそ、以後の国産キットの品質の飛躍的な向上もありえたわけです。ある意味では、当時の書き手たちは読者よりも、むしろメーカーを叱咤激励する意味で筆を運んでいたのかもしれません。
そうした訳で、当初はあまり目を向ける機会の少なかった初期のモデルアートだったのですが、しばらく経ってから読み返してみると、藤平氏や岩河敏(PN.おおくらとしお)氏の、コマ割りの写真構成で各工程を追った、基礎工作を中心とした記事など、主に中・高生ぐらいをターゲットに置いた楽しげな入門記事が親切で、明らかに初めから他誌とは一線を画していたことが読み取れます。藤平さんには後年、僕がMA編集部に出入りをし始めた折に妙に可愛がられ、岩河さんには、さらに後になって僕が自衛隊機を製作する際に、貴重な実機のクローズ・アップ写真を提供して頂くなど、個人的にもいろいろとお世話になるのですが、当時はまさか先でそんなことになるとはもちろん思いもよりません。
総じて、先述の僕の行きつけの店の例にも代表されるように、あの頃は各地の模型店に大抵はそれぞれの群雄が割拠していた時代で、見ようによっては、それぞれにスタンスの違った立脚点から言いたい放題をぶちあげていたといった状況でもあったのですが、そうした混乱の中に、専門誌としてのある一つのスタンダードを作り上げようという意向が、すでにこの頃の「モデルアート」に存在していたのかも知れません。言うまでもなく、当然いつかそれは必要なことでもあったわけです。
やがて時は流れ、当時のモケイ全盛世代の少年たち(だいたい昭和20年代後半〜30年代前半生まれ)も成長して、それぞれに受験を機に去って行ったり、就職を機に離れたりで、かく言う僕自身も、東京の高校に進学してから以降は数年というもの、まったくモケイのことなど振り返ることはありませんでした。それがある日のこと、学校の友人に付き合わされて、たいして気乗りのせぬままに久し振りにモケイ屋という所へ足を運び、そこで図らずも出遭ってしまったのが、かの池田裕光氏の作品だったのです。二十歳を過ぎた頃のことでした。
池田さんの作については、僕ごときが所見を述べるのは僭越なので、ここで敢えて解説などしようと思いませんが、久方振りに見る模型界の状況の方はというと、随分と変わってしまっていたようでした。先にも述べたように、かつてのモケイ少年たちは、その多くがこの世界から徐々に離れて行ってしまっており、それでもなお且つしぶとく居残っている一握りの、所謂「マニア」達は、その増え続ける情報量により、どんどん知識がディープな世界にはまり込んでゆくことに息が詰まってしまって、なかなか思うように手を動かせない状況に立ち至っているように目に映ったのです。何しろキットの現実の方はと言うと、現代の水準から見てしまえば、まだまだお粗末と呼べるものが数多く見られたという時代でしたからね。
やっとこさ、70年代の末近くになってきました。その頃の前述のような(飛行機モデルの)ある種の閉塞感をもたらしていたことの源が、いつの間にかすでにそのスタイルを確定しつつあった、模型ジャーナリズムの功罪にその責を求められるものであることは、なまじしばらくの間モケイから遠ざかっていたが故に、僕の目には却ってくっきりと感じ取ることができました。一方の僕自身の方はというと、そんな周囲の状況とは全く対照的にアタマの中は空っぽで(何しろ中学生以来で止まってたわけですので)、周りには見たこともない新キットだらけ。当分の間はまるで海綿状態の脳味噌がどくどくと接着剤を吸い上げてゆくかの如き勢い(BSEはまだその頃ありませんでしたが、それにしても一体どういう比喩ですかね・・・)で、忙しく手を動かす時期を迎えることとなりました。
取り敢えず最初の3ヶ月足らずの間に、ハセガワの1/72などを中心にざっと50〜60機ばかりを作ってみました。ほぼ日産1機に近いペースで、もちろんその出来上がりの程は推して知るべしです。そうやってリハビリに励む間にやがてその年の初夏を迎え、毎年恒例のPPCの季節となります。N模型でもエントリーを募るところとなり、僕の知らないうちにその頃店に置いていた中の1機が持ち出されて(数合わせのためでしょう。当時有名店には一定の出展数ノルマがあったようなのです)、結果は全く意外にも、小型機部門の銀賞ということになってしまいました。当時の実際の審査にあたられた方々には大変失礼ですが、このときの過分の評価はまるで見当違いもいいところ、その時分のつたない自身の基準に照らして見てもそれは甚だいい加減なシロモノで、正直、後々に至るまで当人にとっては赤面ものといえる事態でした。
また一方で、他の分野に目を向けるならば、ほぼ同時期に、当時はタミヤMMを基盤とするAFVディオラマ・モデリングの興隆期でもあったわけで、スケール・モデルの潮流にそれまでにはなかった新たなベクトルが生じようとしていた変貌期でもあったわけです。それ以前にはてっきりミニカーの専門雑誌という程度の認識しかなかった筈の「ホビージャパン」が、いつの間にかディオラマ専門誌の様相を呈するに至っており、N模型での顔なじみの面々の中にも、ぼちぼち同誌での記事を手掛ける者が出始めておりました。そうしたAFV系のモデラー仲間(確か某OKUNOとかナンとかいった・・・)に引きずり込まれるような形で、自分もある日、藤森編集長(当時)に紹介され、やがてディオラマ(出来ることなら思い出したくはない)の作家として、誌面デビューをすることになるのです。
その後、ある日HJ編集部で偶然、野中寿夫氏(後にTAC Editionを主催)と行き会うこととなり、氏に連れられてその足で今度はMA編集部へと向かったのです。79年の秋の1日のことでした。
当時の「モデルアート」は同じ飯田橋でも今とは違う某雑居ビルの、薄暗く狭い階段を昇って行った3階の一室に編集部を置いていました。まあ正直なところ、明るく清潔感のあったHJ編集部とは、かなり趣きの異なる場所だったことは確かです。まだ山下氏の前の渡辺氏が本誌の編集長を務めていた最後の頃で、そこで有難くも頂いた初仕事が、80年1月号(だったよね?)の白黒ザラ紙ページを、いやが上にも地味に飾るレベルの新作G−10だったわけです。要するにはっきり言ってザコ記事ですね。(ついでに言えば、そのとき同時進行でエアのF型の原稿も依頼されていました)
前にも触れた如くその頃の僕としては、頭でっかちになってしまっていて、滅多に手の動くことのない周りの連中の、その病理の根本原因の一つが、当時の雑誌ジャーナリズムにあるのではないかとの目星は付けていた訳ですが、その大きな要因が、一つ前の時代にその使命を終えていてしかるべき、かつての「プラモガイド」スタイルを一歩も脱却しようとしない「最低限これだけは手を加えないと〇〇らしくは見えない」だとか、あるいは時に「箸にも棒にも掛からないのでこのキットを作るのは時間の無駄」などといった強迫観念的な辛口キット評が、模型記事の安易な定石としてなお(ある意味で現在に至るまでも)存続し続けていたことにあると考えていたわけです。
見方を換えるなら当時の状況は、大袈裟に言えば、限られた「マニア」が「モデラー・又は単なるモケイ好き」を模型店頭から駆逐し去ろうとしていた時期なのではないかとさえ、僕の目に映っていたのです。レベルが次々と1/32シリーズを連発していた頃には、みな同じように楽しきモケイ・ライフを満喫していたであろう少年たちであった筈なのに。
もちろん僕自身のスタンスとしてはあくまでも後者であって、間違っても自分をマニアだなどとは思っていません。仮にハセガワから素晴らしい決定版のキットが発売されていたとして、考証派の実機マニアであれば自ずと選択肢は一本に絞られてしまうのかも知れませんが、単なるモケイ好きにして見れば、あえてハセガワ家の令嬢よりも、おバカなレベルと楽しく付き合ってみるのや、スタイル抜群のエアフィックスとの逢瀬をしみじみと味わってみるといった選択肢だってアリでしょう(もちろんそれも程度問題ですけどね)。それが「趣味」のさらに奥にある「道楽」というものじゃないでしょうか。ではその「道楽」なんていうものの楽しみ方は、誰が教えてくれるのでしょう。もちろん、どこの雑誌にもそんなことは書いてありません。その答えを与えてくれるのは、他でもない自分自身でしかありません。
そもそも趣味で作るモケイなんてものに定型などあってはならないし、分野を問わず、趣味などというものに費やす時間もスタンスも、その個々人の生活スタイルと価値観とによって、皆異なるのですから、よほど周囲がそのことによって迷惑を被るということでもない限り、本来他人様から横槍や口出しをされる義理などは全くないわけです。
ところが、さあいざ自身が実際にそうした記事原稿を執筆する立場になってみるというと、さて御託はいかに立派でも、現実には僕自身にさしたる知識も文才もあるわけがなく(考えてみればまだ23歳の生意気盛りなだけの若造でした)、これといって特徴も面白味も全くない駄文を、原稿用紙のマス目に書き連ねてゆく自分に、我ながら少なからず幻滅を感じ続けていたというのもまた現実だったのです。
それから以後の僕とMAとの関わりについては、皆さんもよく御存知でしょうから紙数を省きますが、この飯田橋の同じ場所で何年か後には、以前にもここの板でちょっと触れた牧英雄氏との出逢いを経験することになります。
牧英雄氏について言えば、実は僕自身はリアル・タイムでの彼の記事には接していません。ちょうど僕のブランク期間中の数年間が、氏の活躍された時期と重なってしまっていたのです。もっともよく考えてみれば、そもそも僕は熱心に模型雑誌を買って読む読者などではなかったのでしたが。
ただそれでも、時折古本屋で入手したバックナンバーなどを手に取ってみるにつけ、自身が現在進行形で直接に携わっている雑誌の、その来歴への関心はやはり拭い難いものを感じもしたし、実際その幾冊かには、その目次欄に牧氏の名前を見出せるものでした。
多分、モケイ評論という限定された分野の記事として初めて、牧英雄氏が薀蓄とユーモアと毒舌とを絶妙の匙加減で交えた、独特の個性溢れる文体と言うものを実現して見せたのではなかったでしょうか。
失礼ながら僕は氏の風貌について、古いMAの新春対談特集(?)に掲載されていた写真の記憶を頼りに、70年代インテリ風の長髪美青年の面影を探していたのでしたが、実際にお会いした氏は、やや涼しげな毛髪に口髭を蓄えられたオトナの紳士でした。当時はちょうど氏が久々にハセガワ72のF−6Fの記事でMA復帰を果たし、「米海軍機の塗装とマーキング」に関する、極めて資料的価値の高い学究的な連載をしておられた頃です。
さて渡辺編集長との3人で、飯田橋界隈の夜の巷(と言ってもせいぜい居酒屋ですが)に繰り出して、大いに気炎を上げたのは前出の通りです。
実は今現在、僕が今更にのこのことこうした場に現れて、長々とこんな雑文を書き綴っているのも、前にも述べたとおり、ある意味では彼岸の氏の導きのままにキィを叩き続けているのかも知れません。ここのHPがきっかけで氏の訃報を知って以来、徐々にあの20数年前の夜に3人が、モケイを取り巻くさまざまな状況やジャーナリズムの在り方について熱っぽく語り合ったこと、そのやり取りやお互いのそれぞれの表情までもが断片的に思い出されてきたのです。幸か不幸か、僕一人がこの世に残されて、現在に至ってネットという表現の場を与えられた以上、何らかの形であの夜の僕達の熱い思いを伝えてゆく義務があるのではないかという衝動が胸中に常に渦を巻いているわけなのです。
プラモにまつわる評論として、何の弾みにか最近ふと思い出して、この年に至って改めて感銘を禁じ得ない達人の記事に思い至りました。
僕のうろ覚えの記憶に間違いがなければ、それは69年〜70頃の「モデルアート」、確か第18集か第26集あたりではなかったかと思います。当時のMAはよく定番で、同機種の2種のキットを比較しながら組み立ててゆくという企画があったのですが、当然制作・執筆(おそらく撮影も)は前にも本稿にご登場頂いた岩河敏氏です。
その回の特集はズバリMig21で、ハセガワとエアフィックスの72キットの対決ということになるわけなのですが、製作途中で、両者の全長が何故か1cm以上(2cmだったかも!)も異なるという衝撃の事実が判明するわけです。すかさず筆者もここで「なんでだろう?」の一言。
はてさて最終的にどちらのキットに真実の軍配が上がるのか、結論を楽しみにページを繰ると、銀塗装も鮮やかな2つの作品の並ぶ、めでたしめでたしの完成写真が目に入ってきます。確かにスタイルはお互いにちょっと違うものの、あの時代の中学生の目にはどちらも立派なMig21に見えてしまいます。さて僕の好みとしては一体どちらだろう。うーん、やっぱりハセガワがかっこいいかな、でも何となくエアフィックスの方がホントっぽいぞ。
そして最後にやっぱり、全長が異なるのは「なんでだろう?」で終わってしまいます。(Cf.**・ブラジル?)
さすがに子供心にもその結論に笑ってしまったのですが、今にして思えば、そもそもどちらのキットがどう優れているだとか(全長がcm単位で違うということは、一方のキットの存在価値の完全否定にもつながりかねません)、少年の読者層に向かって、どこを何mmどうしなさい(プラ板すらもない時代です)だとかと無意味な記述を続けることをせずに、じっくりと自分の目で見て、自らの判断で好きな方を選んで、存分に楽しみなさいとでも言うかのように記事をまとめているのは、やはり見識というものでしょう。
実はこれこそまさに達観とも言える、モケイ評論の境地ではなかったのでしょうか。− 完 −
<付記> by がらんどう
本当は生身の人間である方に対して「伝説の名人」といった定冠詞を付けて、一種の神格化をして語ってはいけないのでしょうけれど、当時のパテを盛ってもろくに削れないようなレベルの洟垂れ小僧にとってみれば、どうしてもそう言いたくなってしまうような、まぶしい存在が小坂さんでした。何度も書いていますが、モデルアートというプラモデル雑誌の黄金の80年代(読者にとって)の象徴のようなライターであった訳です。
その80年代をずいぶん過ぎてから、当時の小坂さんのお仲間であるオービーズの漫画家さんや、同時期に珠玉の名作を掲載っれたモデラーであり、JG109に作品を所収させていただいている石塚昌弘氏に、小坂さんのお話は断片的にお伺いして、80年代に颯爽と登場した後、長い間プラモデルとは離れているとお聞きしていました。ジャニス・ジョプリンの定冠詞に「生きながらブルースの葬られて」というのが有りますが、小坂さんに関しても、私は、あれから20年てっきり「生きながらプラモデルに葬られて」いたものとばかり思いこんでいました(^_^;)
その小坂さんご本人が、なんと2003年の11月6日になって当方の掲示板に、突如書き込みをなさってくれました。私にとっては、まさに現人神の降臨のようなものです。モデラーとして、あるいは個人の趣味のプラモデルサイトを開設していて、こんな嬉しいことは無いと言えますでしょう。聞けば、雑記録中の「追悼 牧英雄氏」の記事がきっかけだったとか。故牧氏に再び合掌。
キットも豊富でかつ精密な出来という状況の中、こういう古い話をしても今の若い方、あるいは出戻りの方にはピンと来ないでしょうけれど、20年前の同誌の記事と言えば、エアやレベルを相手にしてほとんど富士山を一合目から登るようなモデリングだった訳で、これは本当に尊敬の眼差しが向けられたものなんです。廃刊になってしまった、同社のM-Cats誌07号でも、故池田裕光氏さん(小坂さん自身が憧れたモデラーさんです)と並んで小坂さんの作品が掲載されましたが(ただゲルブ14とかクリストルといった対戦機ファンにとっての有名作が未掲載なのが残念)、当時のH編集長は私と同じ年齢なので、彼の小坂さんに対するリスペクトは良く理解できましたし、またこの件でもわざわざご丁寧なご連絡をいただき、聡明かつ暖かいお人柄に初めて接する事が出来ました。(1985年当時の小坂さん:モデルアートまにゅあるvol.1掲載写真をトレース)
2003年11月 9日