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横浜線
全国行脚‐東日本編
1980(昭和55)年の夏、相原駅下りホームで撮影した103系です。
当時の横浜線はスカイブルーとライトグリーンの混色で
京浜東北・根岸線との誤乗防止のため、先頭車前面に大きな前サボを掲げていました。
写真の前サボは最もポピュラーだった標準タイプと言えるものです。
こちらは大型ステッカーの直貼りタイプです。(高運転台)
大型ステッカーの直貼りタイプです。(低運転台)
スカイブルーの台座に大型ステッカーを貼ったものです。
横浜線の103系低運転台車で唯一シールドビーム2灯化改造されていたクハ103-99です。
ヒナ方に連結されていました。
相原-八王子がまだ単線だった頃、
新相原トンネル(現在は下り線)を抜けてきた上り磯子行きです。
全色ライトグリーンの103系の編成は205系置き換えまで運転されていましたが
どの編成も中間のサハは最後まで非冷房車のままでした。
したがって横浜線の冷房化率が100%になったのは205系化が完了したときでした。
1986(昭和61)年7月、
八王子−茅ヶ崎に運転された臨時の海水浴列車「かっぱ」号です。
八王子の八高線ホームを出発した列車は中央線の上下本線を横断して横浜線に転線し、
横浜線内は各駅停車、相模線内はタブレット交換のない無人駅のみ通過していました。
途中の相原では助役が白旗で停止位置を示し、
列車扱いであるため発車に際しては右手を挙げて出発指示合図を出していました。
2003(平成15)年、東神奈川での1カットです。
工臨がJR貨物からJR東日本に業務移管された際に実施された
動力車乗務員の訓練運転です。
数日間運転され、田端のEF65と高崎のEF64が充てられていました。
写真のEF65-1115はかつてのブルトレ牽引機です。
上段カットの逆サイドです。
八王子方から入線して、東神奈川で折り返すダイヤが組まれていました。
短笛一声発車していきましたが、
単弁の操作しかない単機での訓練運転の実効性に疑いを持ったのは
管理人だけでしょうか。
中山の中線で停車中の田町区183・189系H81編成の1カットです。
8Bであるため横浜線の集約臨(修学旅行)にはよく使用されていました。
早朝の中山で時間調整した後、小机まで上り、
折り返して八王子経由で日光に向かいます。
今思えば同編成の晩年の姿となってしまいました。
他社に譲渡されるため、長津田を後に築堤を上る東急5000系の甲種輸送です。
まだ緩急車が省略されていない頃の1カットです。
1984(昭和59)年12月に片倉付近で撮影したものです。
一見貨物列車に見えますが甲種輸送の帰りです。
緩急車2両のみというのが支線貨物の末期状態を醸し出しています。

ホーム拡張前の長津田で、
他社に譲渡されるために組成中の東急5000系甲種輸送です。
上り1番(側線)に到着した機関車が、上り本線で逆進路をとっている際の1カットです。
上段カットの組成完了後の様子です。
5000系は塗装変更が施されていました。
相原-八王子がまだ単線だった頃、
新相原トンネル(現在は下り線)を抜けてきた上り列車ですです。
緩急車(ヨ8000)を2両従えて
東急の甲種車両を引き取りに長津田に向かっているところです。
いわゆる甲種車両輸送の回送です。
東急8000系か8500系の中間車の甲種車両輸送です。
撮影は1984(昭和59)年9月です。
上段の列車が長津田に到着したところです。
助役の右手には停車位置指示のための白のフライ旗が確認されます。
東神奈川を発車した103系八王子行きです。
撮影は1981(昭和56)年3月。
東神奈川に1番線が復活する前です。
1986(昭和61)年7月、単線時代の片倉で撮影した団臨の「江戸」です。
牽引機は当時の横浜線専属機関車の一両とも言える、DE10-556です。
昭和50年代前半、横浜線にシルバーシートが設けられた頃の1カットです。
この頃はシートの色はブルーのままでステッカーが貼られただけでした。
混色&ドア上のステッカー。
横浜線の103系にほかなりません。
こちらは上段カットと同時期に旧型国電にも展開されたシルバーシートです。
103系同様、シートはブルー地のままでした。
旧型国電は窓配置も多様であったため、
ステッカーの貼り付け位置はまちまちでした。
昭和50年代前半、中山駅八王子方です。
当時は中線に上り列車が進入することはなかったのですが
3番線に荷電が故障で停車していたため
後続の列車が中線発着となったときの1カットです。
周囲の風景もすっかり変わってしまいました。
こちらは昭和50年代前半、淵野辺駅八王子方です。
当時の淵野辺は車扱貨物駅でした。
主な荷主は駅のすぐ近くの飲料メーカと隣の矢部駅奥の米軍です。
画面左には旧型国電。
同右には組成を終えた下り貨物列車が出発時刻を待っています。
2011年夏に運転された快速「富士河口湖」号です。
もともとは春臨の設定でしたが東日本大震災のため夏臨に延期となりました。
運用に投入されたのは豊田のM40編成でした。
こちらは上段カットのアップです。
快速「富士河口湖」号のサボです。
管理人も最後部のクモハ115に東神奈川から相模湖まで乗車し、
小仏峠を駆け上るモーター音を満喫してきました。
横の回転幕は「臨時」表示でした。
東神奈川の案内表示です。
東神奈川の乗車口目標です。
1988(昭和63)年9月、クモハ40を使用した記念列車が運転されました。
中山で折り返す際の1カットです。
こちらはサボを「八王子」に変更したものです。
2009(平成21)年9月26日、八トタ115系3B*2を使用した団体列車が運転されました。
「旅のプレゼント」号です。
中山で折り返し発車待ちの「旅のプレゼント」号です。
HM付きです。
中央の連結部分です。
後方からの1カットです。
残念ながら八トタの115系(山スカ)は2014年12月に全廃となってしまいました。
1985(昭和60)年11月28日中山〇ヨ、29日折り返しで客レの団臨が運転されました。
管理人が知る限り、客レの団臨が中山に入線したのはこのときが初めてで
ましてや80系シナ座はこのときが最初で最後であったと思います。

28日の夜、中線に到着したDE10-553牽引の80系シナ座は↓

すぐに上り線を使って機回しをして↓
翌朝の出発に備えました。
翌朝はピーカンのいい天気、中山駅ではモロ逆光になるものの
走行をサイドから狙うべく、会社を半休してテレビのニュースを見たところ
同時多発ゲリラが発生し首都圏の国鉄は全面マヒ状態との事。↓

止むを得ず中山駅に行き、入場規制をされている改札口で理由を言って
構内に入れてもらい、誰もいないホームでモロ逆光の中バシバシ撮りました、が
あまりモノになるものは撮れませんでした。

1981(昭和56)年9月4日、東急デハ3042の甲種輸送がありました。
行き先は逗子です。

長津田駅の側線は当時2本ありました。(現在は1本)

その東急側にデハ3042は停められていました。
八王子方からDE10がワフとヨの2両を牽いて 
国鉄よりの側線(上り1番)に入線してきました。↓

デハ3042の窓にはこのような車票が貼ってありました。↓

 

上りの103系を1本出した後、ワフとヨが切り離され

DE10はワフのみをしたがえてヒナ方に引き上げます。

そしてポイントを切り替えた後、デハ3042に連結されました。

デハ3042をつまんだ後、いま来た逆の経路をたどり、

先ほど置いてきたヨにデハ3042が連結されました。↓

こんどはDE10とワフの間を切り離し、

単機となったDE10は

再びヒナ方に引き上げ上り本線で逆進路をとりながら、↓

下り線のハチ方まで引き上げ、ヨの前に連結され組成完了となりました。↓

そして定刻になると逗子へと旅立っていきました。

<追撮>掲載分  @ A B C D E F