一枚の切符から‐記憶の一片
急行 アルプス51号

昭和51年8月4日 乗車
早朝の臨時急行「アルプス」です。
身延線沿線の父の実家に行く際に利用したもので
実際には八王子から乗車しました。
それまでは東海道線経由でした訪れたかことがなかったため
初めての中央本線にわくわくしてサロ165に乗車したのを覚えています。
急行 津軽2号

昭和53年3月27日 乗車
まだ下り奇数号、上り偶数号になっていなかった頃、
全国に多くの夜行急行が走っていました。
客車の場合、ほとんどの臨時は12系が使用されていましたが
定期列車はまだまだ旧型客車が主流でした。
この列車も例外ではなく旧型のハ座のほかに、ナロネ10、オハネフ12、
スハネ16、そしてこの切符のスロフ62で組成されていました。
牽引機も上野−黒磯 EF58、黒磯−福島 ED71、福島−米沢 EF71、
米沢−山形 ED78重連、山形−秋田 ED75、秋田−青森 ED75 と
細かくリレーされていました。
1号車のハ座と2・3号車のスハネ16が秋田で切り離されると
4号車のスロフ62が最後尾となります。
そのことが昔の展望車を髣髴させ、この列車を選んで旅に出ました。
秋田を出て貫通路に鎖が1本だけ掛けられた最後尾に立ってみると
後へ後へと伸びてゆくレールに、いま旅をしていることを強く感じました。
急行 十和田51号

昭和52年5月5日 乗車
12系の客車急行に乗りたくて、常磐線浪江までの往復という「乗り鉄」のときの列車です。
上野7:00発の「ひたち1号」で水戸に行き、そこで旧客普通列車の仙台行きに乗り継ぎ
浪江まで行きました。
お目当ての「十和田51号」は空いており、乗車率は50%程度であったと記憶しております。
水戸まではED75が担当し、水戸から終点の上野まではEF80が牽引しました。
当日のEF80は、現在碓氷鉄道文化村で余生を送っているラストナンバーの63号機でした。
今はなき上野駅20番線にゆっくりと入線したのを覚えています。
急行 富士川1号

昭和52年1月2日 乗車
朝早い165系の東海道線各駅停車で富士まで向かい、
静岡発甲府行きのこの列車に乗りました。
指定席が連結されていた頃の急行「富士川」は5両編成でサハが連結されていました。
自由席は満席状態なものの、指定席は10人ほどの乗客しかおらず
後年指定席廃止の情報を得て、止むを得ないことであると感じました。
また富士方(東海道線上り方)には153系から改造されたクハ164が充てられることもあり、
管理人も後日三島まで乗車した経験があります。
急行 赤倉

昭和53年3月27日 乗車
当時の「赤倉」は新潟−名古屋を信越・篠ノ井・中央線経由で結ぶ気動車急行でした。
全区間架線下で、しかも多層建てでもないのに気動車を使用している急行は「赤倉」のほかに
新潟−大阪を北陸線経由で結ぶ「越後」がありました。
「赤倉」の編成長は通常期で10両、繁忙期で12両でした
管理人は別の日、上り「赤倉」に長岡−名古屋で乗車したことがあります。
席を取ったのは最後部の自由席「増12号車」。
信越線内の数駅ではホーム長が足りないにもかかわらず、閉扉扱いしていなかったため
とてもアブナイ状態でした。
急行 佐渡3号

昭和53年3月27日 乗車
上段の「赤倉」を乗り継いで利用した列車です。
使用されていたのは165系。
そもそも165系自体が上越線での急行電車用に開発されたものですから
当たり前といっては当たり前の話です。
乗車してまもなく社外は宵闇に包まれ、
座席も通路側であったため車窓を楽しんだ記憶もありません。
急行 十和田3号

昭和53年3月28日 乗車
青森発の上り「十和田」に全区間乗車しました。
号数は「3号」ですが、列車番号が6000番台の季節列車であったと記憶しております。
当時の急行列車の中でこの「十和田3号」が画期的だったのは
14系座席車を使用していた点です。
寝返りのたびに音が出てもとのポジションに戻ってしまう簡易リクライニングシートでしたが
確かなお得感はありました。
終点の上野到着5分前から始まった車内アナウンスでも
特急用車両を使用している旨が説明されていました。
急行 軽井沢51号

昭和57年8月7日 乗車
全車指定席の臨時急行。それが「軽井沢」でした。
横軽を超えるにもかかわらず169系よりも165系による運転が多かったように記憶しています。
これも多客期を中心に運転されていた臨時のためでしょうか。
165系での運転の際は横軽でEF63との協調運転ができないので編成長が制限されます。
このときの編成は高シマの165系6両。当然ながら湘南色で原型ヘッドライトです。

横軽では空気バネの空気を抜いてゴツゴツした乗り心地だったのを鮮明に覚えています。
特急 つばさ51号

昭和52年8月14日 乗車
EF65PF牽引の列車に乗りたくて、日帰りの乗り鉄を計画しました。
当時東海道筋の寝台特急はすべてEF65P(500)でしたので、PFが牽引する列車は
定期で特急「あけぼの」ぐらいだったと記憶しております。
したがってPFの特急牽引は希少性が高かったのです。
板谷峠を越えて福島駅にすべり込んできた14系10両の先頭はEF71の3号機でした。
福島-黒磯はED75が牽引し、そしていよいよ黒磯からはお目当てのPFの牽引です。
ただPFに牽かれていると思っただけで、とてもうれしく感じたのを記憶しています。
急行 ときわ4号

昭和52年3月21日 乗車
この頃、上野駅10番線は急行「ときわ」の専用ホームでした。
1時間おきに発車する勝田電車区の451系は、常磐線の「顔」と言っても過言ではありません。
グリーン車を含めた11両編成は、途中勝田で付属の4両が切り離されることが多いようでした。

当時「ときわ」と同じ編成を使用していた急行に「もりおか」があります。
上野発常磐線経由盛岡行きのこの急行は定期列車として2往復設定されていました。
この列車についても勝田で増解結をしていたことを記憶しております。
特急 出雲3号

昭和60年8月21日 乗車
59.2貨物列車大合理化ダイヤ改正後もかろうじて残ったローカル貨物列車に
境線の専用貨物がありました。
境港から知井宮までの鉄道による最後の原木輸送を撮るために利用したのが
この「出雲3号」です。
14系寝台車で組成されていたこの列車にはA寝台、2段B寝台のほかに
3段B寝台が連結されていたのがほかの特急では例を見ない特徴的な点でした。
通常は9両編成ですが多客期には12両となり、
速度確保の関係から山陰本線内はDD51の重連牽引でした。
急行 伊豆55号

昭和52年5月1日 乗車
当時の伊豆方面への臨時急行は田町区の155167系が担当していました。
いずれも修学旅行色で冷房改造もされておらず、車内は簡易テーブルが常設されており
いわば原型の状態でした。(※伊豆55号の画像)
目にも鮮やかな修学旅行色の167系に乗りたくて熱海から横浜まで乗車しました。
特に冷房が必要な季節でもなくとても快適でした。
一番印象に残っているのは、車内販売で買ったアイスクリームを
オリジナルの簡易テーブルを利用して食べたことです。
急行 アルプス3号

昭和52年5月3日 乗車
上りの急行「アルプス」です。
165系で組成されていた「アルプス」ですが
この頃は営業休止となったサハシ165がまだ連結されており
山男たちの溜り場になっていました。
乗車した2号車は低屋根のモハ164-800番代で
車内から見てもパン下の天井も低くなっているのがはっきりわかり
ちょっとした感動を覚えました。
急行 ときわ1号

昭和53年3月21日乗車
春の彼岸に母方の墓参りをする際に利用した列車です。
車両は勝田電車区の451系。
東海道を走る153系などと比べてドアのステップが印象的です。
車内の天井はタバコの脂で黄色くなっており閉口しましたが
快足を跳ばして走る常磐線の車窓を見ているうちに
あっという間に勝田に着きました。
急行 ばんだい9号

昭和56年11月2日乗車
紅葉の只見線を撮る際に利用した列車です。
日付が変わる少し前に上野を発車したこの列車は
小山を過ぎたあたりからスピードを極端に落として時間を稼ぎながら走ります。
指定席は減光されますが、自由席は一晩中煌々と明かりがついていました。
終着の会津若松に着くのは明朝5時過ぎ。
そこでは磐越西線と只見線の下り始発列車がばんだい9号の乗客を引き継ぎます。
急行 越前

昭和57年4月9日 乗車
能登半島の鉄道を撮るために利用した列車です。
信越線経由のこの列車の牽引機は当然EF62でした。(上野−直江津)
そのEF62がナロネ10、オハネフ12、スハネ16そして実際に乗車したスロ62などを
牽引していたのですから、今となってはジオラマでしか再現できない宝石箱のような編成でした。
このときの最大の収穫ともいえる1カットは氷見線客車列車の立山連邦バックです。

当時の氷見線にはまだ腕木式信号機も残っていました。
急行 エメラルド

昭和57年7月29日 乗車
急行列車が全盛だった時代、
趣味以外では全区間乗車する人など到底いないと思われる列車がありました。
急行「大社」です。
キハ58・28系で組成されたこの列車は
名古屋−米原−敦賀−西舞鶴−豊岡−出雲市−大社 を
東海道本線−北陸本線−小浜線−旧・宮津線−山陰本線−旧・大社線 経由で走破します。
夏季期間、海水浴客用列車として急行「大社」の名古屋−若狭高浜に運転されたのが
この急行「エメラルド」です。
6両編成の中には2両のキハ65系が連結されている強力編成でした。
実際に乗車したのもキハ65系のうちの1両で、500馬力のエンジン音に酔いしれていました。
急行 銀河51号

昭和53年8月16日 乗車
この頃、14系ハザに乗るには臨時列車を狙うしかありませんでした。
特急用の車両でしたのでそのほとんどが「つばさ51号」「はつかり51号」といった
定期の電車特急を補完する目的で運転されていましたが
そんな中、急行に使用していたのがこの列車です。
特急用車両を普通列車として使用することもある現在と違い、
特急用車両を急行列車で乗車できることは、当時としてとてもお得感があったものでした。
12両の14系を宮原のEF58がゆっくり牽いて上京しました。
急行 きたぐに

昭和57年7月27日 乗車
旧・宮津線の撮影のために利用した列車です。
この頃の「きたぐに」の運転区間は大阪〜青森で、
新潟以西には10系寝台車が連結されていました。
座席車両は定期列車としては珍しく12系化されており、
乗車の少し前まではスロ62が全区間連結されていたのを記憶しております。
12系のボックス席で夜を明かすなど、今思えば若くなければできない芸当でした。
急行 信州9号

昭和58年2月12日 乗車
その頃の飯山線にはスキーのシーズンになると毎週末、
上野からの臨時列車が運転されていました。
12系9Bで夜半に上野を出発した列車は長野で6B・3Bに分割されて
3BはDD16牽引で飯山線に入線します。
終点の戸狩に着くのは早朝、まだ暗いうち。
この快速「戸狩スキー」の回送(上り)を狙うべく、利用したのがこの信州9号です。
利用客はスキーヤーばかりでした。
特急 富士

昭和58年7月30日 乗車
この年の夏は、翌年1月で廃止となる高森線の貨物列車を中心に
肥薩線貨物列車高森線貨物列車久大本線客車列車と撮影しました。
撮影最終日、久大本線の50系客車列車で久留米に着いたときは
九州内発東京行きの寝台特急はすべて発車した後で
やむを得ず広島まで新幹線を利用し、この列車に乗り継ぎました。
生まれてはじめてのA寝台個室でした。
特急 北斗8号

昭和59年11月17日乗車
旧・手宮線の貨物列車を撮影した帰りに利用した列車です。
初めての北海道ということもあり、撮影後は稚内まで足を伸ばして、そこで一泊しました。
帰路は旭川行きの客車による普通列車。
DD51が2両の荷物車と1両のオハフ51を牽引して宗谷本線を時間をかけて南下します。
途中、音威子府に着く頃にはSGの蒸気がなくなったのではないかと思うくらい
車内が寒くなりました。
旭川から札幌までは後走りの急行「天北」に乗り継ぎそしてこの「北斗8号」へ。
初めて乗るキハ183系の加速の良さに驚いたのを覚えています。
特急 鳥海

昭和59年11月18日 乗車
旧・手宮線の貨物列車を撮影した帰りに利用した列車です。
早朝、青森に着いた青函連絡船を降りた管理人は駅待合室でしばし仮眠をとり
485系の普通車指定席(簡易リクライニングシート)に乗り込みました。
青森から上野まで東北線を利用するにしても相当な距離があるのに
それを奥羽・羽越・上越線経由(昼行)で上野に向かうのですから
乗車疲労度は大変なもので、新潟県内に入った時点ですでにバテていました。
急行 お座敷みちのく

昭和63年1月4日 乗車
磐越西線のED77を撮影した帰りに利用した列車です。
その名のとおり、今はなき「ふれあいみちのく」を利用した臨時急行(昼行)で
運転区間は青森−新宿の上りのみ、しかも運転日は同日のみと言う超レアものでした。
おかげで乗客のほとんどが鉄道マニアで、団体客としてどこかの大学の鉄研もいたようです。
車内は始終ざわめき、落ち着いたお座敷列車の旅とは程遠いものでした。
特急 瀬戸

平成2年8月4日 乗車
播但線の50系客車を撮影するにあたり、
その日一番早く姫路に到着する列車として利用しました。
とても暑かったこと、昼まで何も食べられなかったこと、
カメラに掛けていたタオルを風で田んぼの真ん中に飛ばされてしまったことなど
覚えているのは撮影現場でのことばかりで、車中のことは記憶にありません。
急行 サロン会津路

平成3年5月5日 乗車
ゴールデンウィークに北東北を一周するたびに出かけました。
帰路郡山から利用したのがこの列車です。
車両は14系お座敷客車「ゆとり」の前身「サロンエクスプレス東京」です。
郡山で乗車した際、コンパートメントに自分一人だけを願って恐る恐るドアを開けたところ
中には先客の家族連れが一組いました。
さすがにいたたまれず、最後部にいったところ座る余地もないほど混んでおり
やむを得ず最前部のサロンに移動して牽引機を終点まで見ていました。
そのときのPFの姿がしっかりとまぶたに焼き付いています。
急行
パノラマエクスプレスアルプス

平成3年8月6日 乗車
飯山線の12系簡易お座敷列車を撮る際に利用した列車です。
八王子から何本もの特急列車を退避しながら松本へと向かいました。
往時の急行「アルプス」ほどの速力はなく、
165系の終焉の近さが感じられました。
塩嶺トンネルのなかで最前部に移動しましたが
車内が明るくであまりよく見えませんでした。
特急
リゾートゆう さざなみ

平成4年4月9日 乗車
お座敷改造される前の「リゾートゆう」に乗車しました。
安房鴨川発、内房線経由の東京行きでしたので
普段は優等列車が走らない区間に乗車することができました。
太海付近を走行中、「この区間は普段は特急列車が運転されておりません。
どうぞ南房総の海の眺めをお楽しみください。」といった車掌のアナウンスがありました。
快速 葉ッピーきよさと

平成4年8月8日 乗車
編成はDD16に牽引された169系3両
俗に「かもしか」色と呼ばれていた塗装です。
当日の牽引機は302号機で、ドア電源用のSIVを積んでいるとは言え
冷房の電力まで供給はされておらず、小海線内は窓全開でした。
小海から野辺山までの連続勾配ではDD16のエンジンが壊れるのほどのフルノッチでしたが、
速度は30km/hがやっとでした。
快速
ノスタルジックビュートレイン
1号


平成3年5月3日 乗車
風光明媚な五能線を展望車で満喫できることで人気のあった列車です。
通常の運転区間は東能代―弘前ですが、
この年のGWは秋田―東能代が延長運転区間となりました。
この区間はED75が牽引する定期普通列車に増結される(ぶら下がる)形で運転され、
最後部にはDE10も連結されていました。
五能線を走るDE10の「タンタンタン・タンタン」といった独特のジョイント音がとても印象的でした。
急行 信州55号

昭和59年2月11日乗車
長野新幹線ができる前の信越本線は多くの特急・急行が走っていました。
特急では金沢行きの「白山」、長野・直江津行きの「あさま」、急行では福井行きの「越前」
直江津行きの「妙高」、長野行きの「信州」などの定期列車がありました。
多客期にはこれらに加え50番台の臨時列車が多数運転されており、
中には夜行列車もありました。この「信州55号」もそのうちの1本です。
奮発してグリーン車指定席を取ったため、サロ169に乗車する貴重な体験となりました。
特急 あさかぜ1号

平成5年2月11日乗車
今は亡き特急「あさかぜ」も、最盛期には定期運転だけで3往復もありました。
その後、2往復に減便したものの多客期には20系を使用した「51号」が運転されておりました。
列車番号は8011レ。立派な設定臨でした。
動くホテルとも称された「あさかぜ」には他の寝台特急に先駆けた設備が設けられておりました。
20系時代の1等車個室、そしてこの切符の車両に設けられたシャワー室です。
「あさかぜ」は日本で始めてシャワー室を設備した寝台特急でした。
特急 さくら

平成5年2月13日乗車
運転区間が、東京−長崎・佐世保だったころの上り「さくら」(佐世保編成)に
ほぼ全区間乗車しました。
本来、隣の15号車はスハネフ14であるはずなのですが
このときは検査の都合か、座席車のスハフ14が給電用に連結されていました。
早岐を出てからしばらくして15号車をのぞきに行った際、客室ドアが施錠されてなかったので
「あとでサロン代わりに使おう」思っていましたが、博多に着くころにはしっかり施錠されていました。
急行 ばんだい51号

昭和61年4月25日乗車
昭和50年代の夜の上野駅は夜行列車でにぎわっていました。
その中にはブルートレインといわれる寝台特急ばかりでなく
「ばんだい」「ざおう」「信州」など座席車オンリーの急行列車もありました。

これらの急行列車は撮影旅行には非常に重宝で、
翌朝現地の始発に乗り継いで撮影現場に向かうことを容易にしてくれました。

長野で飯山線の始発へ、会津若松で只見線や磐越西線の始発への乗換えなどがその例です。
そんな急行列車も昭和60年代に入ると廃止され、
多客期に臨時が運転されるのみとなっていました。

磐越西線の車扱貨物を撮るためにこの貴重な臨時の夜行急行を利用しました。
この頃この列車でなければ会津若松で磐越西線の始発には接続しなかったのです。
12系の座席は決して寝心地がよいものではありませんでしたが...
特急 北斗星3号

平成4年5月2日乗車
いまだ根強い人気のある特急「北斗星」に初めて乗車したときのものです。
この頃の北斗星は青森経由でしたので、
逆編成になるのは青森〜函館間のみでした。
まだ「カシオペア」の運転はなく、多客期には「エルム」まで増発されていた、
言い換えれば「北斗星」が頂点だった頃です。
個室化改造は進められているものの、車齢を考えればその存続が危ぶまれる「北斗星」。
いつまでも走り続けて欲しいものです。
急行 十和田

昭和60年3月13日
常磐線の名門急行「十和田」もこの日を最後に廃止されてしまいました。
全盛期は昼間走行の臨時も設定されていたほどなのに、時代の流れには逆らえませんでした。
最終運転日はなんと東北本線経由。
つまり急行「八甲田」とまったく同じ経路・区間となりました。
残念ながら諸般の都合で乗車することはできず、記念に指定席券を購入することとし
東北本線経由であることを明らかにするために下車駅は大宮にしました。
管理人の父親が国鉄職員であったため職割を適用し、
急行料金は0円、指定料金は半額であるため250円という破格?の指定席券となりました。
急行 銀河

昭和60年3月7日乗車
この頃の20系には特急定期仕業はすでになく、急行仕業が主体となっていました。
いくつかの急行仕業の中でもロネを連結したものはこの「銀河」しかなく、
いつかは乗車してみたいと以前から考えておりました。
やはり、進行方向に頭を向けて寝れるためでしょうか
実際に乗車してみると、24系25型などの二段ハネに比べて居住性が良いことを体感しました。
ナロネ21への乗車はとても貴重な体験でした。
急行 津軽

平成3年5月2日乗車
583系で運転されていた頃の急行「津軽」です。
当時は山形新幹線の建設工事中でしたので仙山線経由となっており
必然的に山形からは逆編成で終点青森をめざしました。
この日の乗車率はすさまじいもので、
上野では自由席に乗り切れない乗客が普通車指定席の通路に誘導され、
それでも乗り切れずに発車間際にはグリーン車の通路もいっぱいとなりました。
しかも通路にしゃがむ事もできないほど混みあっており、
立ったまま一夜を過ごすことを余儀なくされていました。
こんな状態が途中の山形まで続いておりました。
特急 ふじかわ9号

平成8年5月19日乗車
長い間急行列車として親しまれてきた「富士川」も165系の引退とともに
ひらがなの特急「ふじかわ」となりました。
編成は3両、運転区間は静岡−甲府と画一的なデビューでしたが、
一時期、新居町−静岡を延長運転していたことがありました。
この切符はその運転日のものです。
乗車した感想ですが、JR東海が何をねらって設定したものか理解に苦しみました。
特急 はまかいじ

平成8年5月19日乗車
田町区の185系B編成3本にATC改造をして誕生したのがこの「はまかいじ」です。
運転開始(この年のGW)して間もない下り列車に乗車しました。
現在は松本まで足を伸ばしている「はまかいじ」ですが、運転当初は甲府止まりでした。
後に小淵沢までの延長、上諏訪までの延長と運転区間を延ばし横浜〜松本となりました。
最初からこの運転区間ならば「はまあずさ」(?)になっていたのでしょうか。

ネーミングはともかく、この列車の醍醐味は八王子構内で横浜線から中央線に渡るところです。
特急 はまかいじ3号

平成13年7月22日乗車
かつて幕張区に所属し、そののち長野に転属した183・189系の中には
ATCを搭載した編成がありました。
その編成を限定運用してして運転されたのがこの「はまかいじ3(2)号」です。
営業運転に先立ち貸し出され、東神奈川の電留線にしばらく留置されて
乗務員訓練に使用されていました。
松本〜八王子〜横浜〜大船〜鎌倉を結んだ変りダネ列車でしたが
盛りスジ(9000番台の臨時列車)であったため速度が出せず、
実際の乗車時にはストレスを感じたのを覚えています。
特急
マリンシティーあさま

平成9年9月23日乗車
長野新幹線の開業で横軽が廃止になる数日前、この列車は運転されました。
運転区間は横浜〜長野。
編成は定期「あさま」に使用されていた189系で、
HMのデザインは浅間山を背景にした定期「あさま」の構図下半分に
横浜の港地区の建物らしきイラスト追加されているといったものでした。
例えるならば「はまかいじ」の「あさま」版です。
横浜駅8番線の始発で、発車直後にポイントを渡り横須賀線の上り線へ。
その後は現在の湘南新宿ライン〜高崎線〜信越本線のルートで運転されました。
快速 さよなら碓氷峠

平成9年9月23日乗車
上段の「マリンシティーあさま」から、これまた臨時の「ビュー草津」に高崎で乗り換えた管理人は
万座・鹿沢口を目指しました。

そこからバスに乗り継ぎ鬼押出しを観光して軽井沢に抜け、帰路に乗車したのが
この「さよなら碓氷峠」です。
編成は12系6両。牽引機は当然EF62です。(当日は43号機でした)
生憎の雨模様でしたが、EF63との三重連となる横軽間では大勢のファンの姿が見られました。
乗り継ぎシリーズ @

特急 ひたち1号

昭和56年3月21日乗車
この日の早朝、横浜の自宅を出発した管理人は乗り鉄の旅に出かけました。
横浜線、京浜東北線と乗り継いで上野18番線の地平ホームを7時ちょうどに発車したのが
この「ひたち1号」です。
ふたつ隣の16番線からは「ひばり1号」がこちらも7時ちょうどに発車し、
わずかな間485系の並走シーンが見られます。
水戸でED75牽引の普通列車(旧型客車)仙台行きに乗り換えて平(現:いわき)へ。
平では磐越東線の普通列車に乗り換えて郡山に向かいました。
この磐越東線の普通列車は当時1往復残っていたDD51牽引の旧型客車
管理人は機関車次位のオハユニ64に乗車しました。
乗り継ぎシリーズ A

特急 はつかり51号

昭和56年3月21日乗車
郡山から北上までは臨時特急「はつかり51号」を利用しました。
当時は波動対応となれば専ら14系が特急仕業の任に就きました。
14系10両のこの列車は黒磯まではEF58が単機で、黒磯以北はED75が重連で牽引します。
当日は0番台+1000番台の組み合わせであったと記憶しております。
前を走る定期の「ひばり」が強風のため運休であったため、
駅のアナウンスは「はつかり51号」の代行利用を勧めていました。
重連のED75は甲高いホイッスルを幾度となく吹鳴し、
飛ぶような速さで東北本線を北上してゆきました。
乗換駅の北上には定時到着でした。
乗り継ぎシリーズ B

急行 きたかみ5号

昭和56年3月21日乗車
北上からは北上線経由で秋田を目指しました。
乗車したのは「きたかみ5号」。
当時としてはごく一般的な、28・58系急行型気動車による編成でした。
塗装も当然ながら国鉄急行色です。
北上発19:19であったため、北上線内の車窓を楽しむことは
残念ながらできませんでした。
乗り継ぎシリーズ C

特急 日本海4号

昭和56年3月21日乗車
秋田からは「日本海4号」で直江津を目指しました。
管理人にとってはじめての寝台特急乗車でしたので
気持ちが高ぶってなかなか寝付けなかったのを覚えています。
直江津到着は翌朝の4時22分。
眠ったと思ったらすぐ起きたと言ったような一夜でしたが
早春の朝の冷たい空気がぱっちりと目を覚ましてくれました。
乗り継ぎシリーズ D

急行 ちくま2号

昭和56年3月22日乗車
直江津からは115系の普通列車で長野へ向かい、
季節運転の急行「ちくま2号」に乗り継ぎました。
宮原電車区の167系8両編成で始発の長野を発車したこの列車は
松本で大糸線南小谷発の急行「くろよん」(4両編成)を併結した後、
堂々の12両編成で大阪を目指します。
塗装やボックスのテーブル撤去など165系に準じた改造が施されていましたが
クハ車内に設置されたままの速度計に修学旅行用車両の名残を感じました。

また、途中の篠ノ井線姨捨ではスイッチバックして特急「しなの」を退避していました。
乗り継ぎシリーズ E

特急 南紀5号

昭和56年3月22日乗車
「ちくま2号」を名古屋で下車し、紀伊半島一周に向かうべく、
熊野市までは80系気動車特急「南紀5号」を利用しました。
管理人にとって80系の乗車は初めてでしたのでとても印象深く記憶しております。
ただ残念なことに、通路側の座席であったこと、出発して1時間ほどで辺りが暗くなったことで
車窓を存分に楽しむことはできませんでした。
熊野市からは天王寺行きの各駅停車「はやたま」に乗車しました。
旧型客車にオハネフ12が連結されて寝台扱となっているため愛称がついていた各駅停車です。
こちらは予算の関係で座席車を利用しました。
終点の天王寺に着くのは翌日の早朝です。
乗り継ぎシリーズ F

急行 さんべ5号

昭和56年3月23日乗車
早朝の天王寺に降り立った管理人は、大阪環状線で大阪へ、東海道線で新大阪へ、
新幹線で京都へと移動し、京都からは山陰本線の普通列車を乗り継いで米子を目指しました。
途中、城崎餘部で撮影をしながら旧型客車に揺られて米子についた頃には
すっかり日が暮れていました。
米子からは急行「さんべ5号」の普通車指定席に乗車し、この列車の終点の博多を目指します。
牽引機はDD51、編成は12系+20系寝台からなっており、
乗車した指定席車は20系に隣接して電源供給をしていましたので、
眠るのにあたっては床下のディーゼル発電機がうるさくて閉口したのを覚えています。
同様の編成は急行「ちくま」の夜行列車にも見られました。
九州に入ってからは架線下にもかかわらず、引き続きDD51が終点まで牽引しましたが
足の遅さのためか、途中特急を退避する場面もありました。
乗り継ぎシリーズ G

特急 有明3号

昭和56年3月24日乗車
博多から熊本まで、鹿児島本線の代表的な特急とも言える「有明3号」に乗車しました。
当時の「有明」は481(485)系が主流でしたが、何往復かは581系の昼間利用の設定もあり、
この「3号」はまさしくその昼間利用で管理人もこのときはじめて581系に乗車しました。
指定席は通路側のB席でしたが、A席に人が来ないことをいいことに窓側に移り
二重窓の間に取り付けられたブラインドを操作したり、掘り込み型の肘掛にもたれたりして
熊本までのひとときを楽しみました。
乗り継ぎシリーズ H

特急 富士

昭和56年3月24日乗車
熊本からは豊肥本線の普通列車を利用して大分に向かいました。
途中の宮地〜豊後竹田が不通でバス代行輸送となっており、
宮地の駅前で待っていたのは観光バスが1台。
3両編成の乗客が乗り切れるのか心配でしたが、補助席を使用してピッタリでした。
豊後竹田の近くではあの「荒城の月」のモデルとなった城址のすぐ下をバスは走り、
少し得した気分になりました。
豊後竹田で待っていたのは急行「火の山」の編成を使用した普通列車。
連結されていたグリーン車には目もくれず大馬力のキハ65に乗車し、
その力強い走行音に酔いしれました。
終点の大分からは「富士」に乗車し、自宅のある横浜へ。
とても思い出深い乗り継ぎの旅でした。
特急 つばさ6号

昭和56年11月3日乗車
某鉄道誌に特集されていた只見線の紅葉がすばらしく、
この年の秋の撮影は只見線に決めておりました。
撮影日(11月3日)のころ、奥会津の紅葉はすでに終盤であり
満々と水を湛えた只見川の淵ぶちには色とりどりの木の葉が集まり浮かび
それはそれはとてもきれいでした。
メインにしていた貨物列車も水鏡で撮影でき、
またこの列車は翌年には廃止となったため、とても貴重な一コマとなりました。
帰りの「つばさ6号」は485系で当時としてはとてもポピュラーな編成でした。
すでにあたりは暗くなっており車窓も楽しめず、ただただ眠って帰りました。

急行 妙高1号

昭和57年2月5日乗車
飯山線で快速「戸狩スキー」を撮影するのに利用した列車です。
長野新幹線はまだなく、早朝に上野を発車して妙高高原まで向かうこの列車は
スキー客の定番列車で、この日も満席でした。
周りの席では見知らぬ同士がスキー談義で盛り上がる中、
管理人はただひとり浮いた存在となっていました。

169系のボックスシートが精神的に苦痛でした。
特急 白山6号

昭和58年2月13日乗車
飯山線での撮影の帰りに利用した列車です。
いつもは長野始発の「あさま」を利用していたのですが
たまには489系にも乗っておこうと指定席を取っておいたのが運のつき。
北陸本線内豪雪のため長野に1時間近くも遅れて到着しました。
おかげで自宅に到着したのは深夜となってしまい、
しばらくは後悔の念に駆られていましたが、今となってはいい思い出です。
特急 とき3号

昭和53年8月16日乗車
183系1000番台時代の「とき」です。
この頃の首都圏発着の昼間特急は、東北・常磐が485系、
上信越・中央・東海道が183系1000番台あるいは189系、
そして房総方面が183系0番台となっていました。
当時はL特急といえば特急色で、
特に上野ではこの塗色を見ない時間帯がないと言ってもいいほど、
どこかのホームに止まっていました。
特急 明星

昭和58年7月27日乗車
肥薩線旧高森線の貨物列車久大本線の客車列車を撮影する際に利用した列車です。
降り立った真夏の八代はただただ暑いばかり。
日が高くなるにつれて暑さも厳しくなり、肥薩線での撮影はアングルよりも
撮影ポイントが日陰であることを優先する始末でした。

翌年には59.2の改正がありましたので、後になって考えればこのときが貨物列車最後の夏。
もっと真剣に撮影すればよかったと少々悔やんでいます。
特急 あさしお82号

平成元年8月20日乗車
旧・宮津線撮影の帰路に利用した列車です。
車両は181系特急型気動車
海水浴客の帰宅の足として設定されていたこの列車は
定期の「あさしお」とは異なり、天橋立が始発駅となっていました。
管理人が乗車した丹後由良もこの臨時列車のみが停車しました。
途中、西舞鶴と綾部の二ヶ所で方向が変わる変り種列車でもあり、
車内ではちょっと戸惑う乗客も見かけました。
特急 なは

昭和58年12月22日乗車
翌年の1月いっぱいで廃止される旧高森線の貨物列車 (※1※2※3※4)を
撮影するために利用した列車です。
他では貨物列車の設定はあるものの運休扱となり、
59.2の改正を待たずして事実上の廃止となっている路線も見受けられました。
そんな中、旧高森線については1月いっぱい運転するとのこと。
最後のチャンスとばかり意気込んで出かけました。
実際にはグリーン車ではなく、B寝台に乗車した件はこちらをご覧ください。
急行 宗谷

昭和59年11月16日乗車
小樽で旧・手宮線の撮影を終えた後、稚内に向かいました。
この列車はそのときに利用したものです。
閉口したのは乗車した車両が修学旅行の貸切に近かったことで
管理人以外は学生と学校関係者であったような気がします。
騒がしいの一言で旅情を楽しむことができません。
仕方なく終点稚内まで真っ暗なサロベツ原野を見続けていました。
特急 みずほ

昭和60年3月11日乗車
3月14日のダイヤ改正でなくなる鹿児島本線の旧型客車(鳥栖〜西鹿児島)に乗車した帰りに
利用した列車です。
この列車はいわずと知れた14系寝台の分散電源型。
1号車でも上段ならばなんとか...と思ったのが間違いでした。
耳障りな振動音に一晩中悩まされました。
急行 はまなす

平成4年5月4日乗車
多客期ということで青森−秋田を延長運転していた際に利用した
14系客車急行「はまなす」です。
ゴールデンウィークに小樽を旅した帰りに乗車しました。
本当は「北斗星」で帰京したかったのですが
満席のためやむなくこの列車にしました。
秋田の直前でしばらく停車し、20分近く遅れて到着した記憶があります。
盛りスジ(9000番台臨時列車)の宿命でしょうか。
特急 あけぼの

平成20年2月8日乗車
ぐっと最近に利用した列車ですが、車両は言わずと知れた24系、
すなわち国鉄時代の車両です。
乗車したのは割安感の高いゴロントシート。
喫煙でしたので通路から流れ込んでくる煙に閉口しましたが
次回のダイヤ改正(2009.03.14)からは禁煙になるとのことでした。
もう一度乗りたい列車です。
特急 日光83号

平成19年8月11日乗車
「湘南日光」の復活とも言えるこの列車の出発式は
横浜駅8番線ホームで華々しく執り行われました。
その後は出発番線を9番線に変え、
横須賀線、湘南新宿ラインの過密ダイヤのなか
189系<彩野>を使用して多客期に運転されています。
実際に乗車してみると、乗客の半数は新宿で乗車してきました。
特急 北斗星4号

平成20年2月10日乗車
函館本線の長万部〜小樽は山線の異名を持つ起伏の激しい険しい区間です。
その昔、道内最高の運転技量を持つといわれた動力車乗務員が重連のC62を操り
急行「ニセコ」の先頭に立っていたことを知ったときから
いつかはこの区間をじっくりと体験してみたいと思ってました。
念願かなって北海道を訪れた際、帰路に利用したのがこの「北斗星」です。
キャンセル待ちで偶然ヒットしたロイヤルに乗車できたのは非常にラッキーでした。
急行 伊那路

平成7年12月23日乗車
この日は165系を乗り鉄した日でした。
翌春には特急への格上げが発表れていた「東海」のサロ165で静岡へ、
各駅停車と第三セクターを乗り継ぎ天竜二俣にたどり着きました。
しかし、ここを基点とするJRバスの停留所名は国鉄時代のままの「遠江二俣」。
とても懐かしく、うれしく思いながらバスに揺られて水窪へ、
飯田線に乗り換え一旦北上し、天竜峡に到りました。
そして帰路に利用したのがこの急行「伊那路」です。
165系を使用した復活急行とも言えるこの列車は「東海」同様
特急格上げ、そして定期列車化が発表されていました。
この日は神領のT10編成。
両端デカ目復古調台形大型HMは琴線に響くものが大いにありました。
特急 サンライズ瀬戸

平成12年5月5日乗車
ゴールデンウィークに高松〜松山を延長運転していたこの列車を利用して
四国西部を旅行しました。
お世辞にも広いとは言えない個室でしたが、
だからと言って変な狭苦しさは感じませんでした。
一番印象に残っているのは、
ミニサロンで夕食の駅弁を食べながら見た夕暮れの瀬戸内海です。
まさに延長運転の恩恵でした。
特急
リゾート踊り子82号

平成19年2月11日乗車
黒船電車と名前を変えて活躍するリゾート21による臨時特急です。
星天井を楽しみにグリーン車を奮発しました。
星天井とはトンネルが多い伊豆急線で考案されたサービス(設備)で
長いトンネルに入るとグリーン車の照明が減灯し、イルミネーションによる
宇宙、海中、港町などのイメージが天井に表現されるものです。
当初は4両あったグリーン車も、「港町」の1両が残るのみとなり
それを連結したこの列車はある意味とても貴重でした。
伊豆急線内だけのサービスと思っていましたが、
伊東線(宇佐美−網代)の長いトンネルでも見ることができ感激しました。
特急
ゆうトピア和倉

昭和63年8月21日乗車
七尾線内は自走で、北陸線内は485系「雷鳥」に牽引される(※1
65系急行型気動車を特急用グリーン車に改造した2両編成の変り種列車です。
関西圏から和倉温泉まで乗換なしをセールスポイントに設定されており
前面のパノラマ窓化、ハイデッカーへの変更など原型をとどめない改造でした。(※2
冷房の効きが弱くて閉口したことを覚えています。

客層のほとんどは年配の観光客でした。
快速
ベイドリーム横濱

平成20年9月14日乗車
横浜線開業100周年を記念して運転した列車です。
下りは桜木町〜白馬を夜行で、
上りは松本〜磯子を昼行で2往復運転されました。
車両は長野の189系6B
以前「はまかいじ2・3号」に使用されたものです。
最後部の6号車は松本出発時点で乗客はたった2人。
大月でやっと10人くらいになり、この先の乗車率が気にかかりましたが
八王子からは大変な混み様でほぼ満席になりました。
家族連れも多く、車内で指定券を購入する光景もよく見かけました。
特急 あずさ71号

平成20年9月13日乗車
上段の快速「ベイドリーム横濱」乗車にあたり往路で利用した列車です。
車両は幕張のC2編成。
183・189系でサロが組み込まれた編成としては
当時1編成だけ廃車を免れていた9両です。
この編成は2009(平成21)年3月のダイヤ改正で廃車になりましたので
結果的にこの列車が最後の特急「あずさ」運用でした。
特急
かつうらひなまつり

平成21年3月1日乗車
幕張C2編成による最後の特急運用です。
ということは、たった1両残っていたサロ189(112番)を連結した
最後の特急であることを意味します。
そんなことも手伝ってか、乗客の多くが鉄道ファンであったように見受けられました。
外はあいにくの雨模様でしたが、感慨深く全区間乗車しました。
快速
ムーンライト高知

平成6年5月2日乗車
初めて四国を訪れた際に利用した列車です。
12系3Bのオールグリーン車の座席指定でした。
管理人が乗車したこの車両はカーペット車で、
正直なところグリーン料金に疑問を抱く内容でした。
本州はEF65PFが、四国ではDE10が牽引しました。
列車交換のためスイッチバックをしていたのを覚えています。
快速
レトロ小海線

平成22年10月16日乗車
DD16 11が旧型客車3両を牽いて小海線を走りました。
本来ならSGを持たない貨物機なので
旧型客車を定期的に牽いたことなどありません。
イベント色の強い列車で従来は敬遠していたのですが
昭和57年、同機が牽く「戸狩スキー」に乗車したことを懐かしく思い
再会を果たしました。
特急
マリンエクスプレス
踊り子76号


平成24年3月21日乗車
NEXのE259系を使用した変わり種の「踊り子」です。
前面には錨をデザインしたヘッドマークステッカーが貼られ
車掌もオリジナルデザインの制服を着ていました。
ご覧のとおり車内検札印もマリンエクスプレス専用です。
乗車した管理人はというと
しきりにwifi接続にトライしておりました。
なかなか接続できず、諦めたころにはすでに戸塚を通過中でした。

特急
スーパーひたち11号

平成24年11月2日乗車
E657系を使用した列車です。
水郡線で茨城・福島を走破する際に乗車しました。
特急「ひたち」には485系、651系、E653系と様々な形式に乗車しましたが
乗り心地はE657系が一番良かったように感じました。
品川−仙台の直通運転の一日も早い復活を願って止みません。
快速
マリンライナー58号

平成27年7月20日乗車
所用で高松に出かけた際、帰路の利用した列車です。
どうせ乗るならとグリーン車を奮発しました。
関東よりも陽の長い瀬戸内ですから
高松を出発する頃(19:10)でも辺りはまだ明るかったです。
瀬戸大橋を渡りながらだんだんと暮れていく夕空
筆舌に尽くしがたいほどの美しさでした。
快速
おさんぽ成田

平成28年2月21日乗車
257系500番台5Bによる臨時の快速列車です。
高尾駅1番線を出発したばかりは乗客もまばらでしたが
停車駅を重ね新宿を出るころには
乗車率が60-70%に達していたと記憶しております。
ただすべての乗客が終点の成田まで利用したのかというとそうではなく、
乗車した車両では佐倉で降りた人が目立ちました。
急行
海浜公園ネモフィラ

平成28年5月7日乗車
上野東京ラインを通る臨時列車。
また最近では珍しい急行列車ということで乗車しました。
使用車両は651系7Bで横浜発車時の乗車率は30-40%であったと思います。
常磐線の柏までは細かく停車しますが、その先の停車駅は水戸となります。
しかし急行を名乗る理由でしょうか、途中ひたち野うしくで運転停車し、
特急ひたちを退避しておりました。
特急
日光64号

平成28年5月7日乗車
上段の海浜公園ネモフィラ号を降車した後、ひたちなか海浜鉄道を一往復しました。
その後常磐線、水戸線、宇都宮線、日光線と乗り継ぎJR日光駅に辿り着きました。
駅周辺を散策し東武日光駅から乗車したのがこの列車です。
253系(1000番台)は2編成が残るのみで貴重な形式です。
NEX時代乗車する機会がなかった管理人は是非とも乗車しておきたいと常々考えておりました。
また、翌日にあずさ3号を全区間乗車する布石として
絶好の列車だったのがこの臨時の日光64号でした。
乗車した6号車は元クロで窓配置と座席配置が一致しており快適な車窓が楽しめました。
特急
あずさ3号

平成28年5月8日乗車
東日本大震災の前、JR東日本管内の昼行長距離特急は
1位:いなほ(新潟−青森)、2位:スーパーひたち(上野−仙台)
3位:あずさ(千葉−南小谷)となっていました。
いなほ、スーパーひたちの走行区間が短縮されたのちは
あずさの中でもこの3号だけが341.6kmを5時間かけて走ります。
まさに「乗りごたえあり」の列車でした。

快速
鎌倉紅葉

平成28年11月26日乗車
当日の編成はM50(豊田区189系)でした。
旧あずさ色のこの編成は定期列車時代には走らなかった
青梅線-南武線-武蔵野貨物線-品鶴線-東海道線-横須賀線を経由して
青梅と鎌倉を結びます。
車内に鉄道ファンは少なかったようで、会話の内容から
武蔵野貨物線の長いトンネルに関心を寄せる人は見当たりませんでした。
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